国産ウイスキーの二人の先駆け人と日本人の職人魂!!
1853年マシュー・ペリーが来航した時に伝わって以来、主に外国人居留地のために海外から輸入されていたウイスキーですが、明治期になると薬種問屋で調合ウイスキー(模造ウイスキー)が製造され、それが国産ウイスキーとして出回り始めます。調合ウイスキーとは酒精アルコールに様々な砂糖香辛料を加えたもので、本来の製造方法とは全く異なる全くの別物でした。
しかし明治末から大正にかけて、国内でも本格的なウイスキー造りをしようと数社の酒造会社が動き出します。その中でも一番影響を与えたのが、酒精メーカーである摂津酒造に勤務していた竹鶴政孝です。
竹鶴は上司である岩井喜一郎などからスコットランドで製造工程などを学んでくるよう命を受け、グラスゴー大学、キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所などで実習を経験し、そのノウハウを学びました。そして1920年帰国し、学んできたことをまとめた2冊の大学ノ-トを報告書として上司に提出しました。それをもとに日本における本格的な製造がスタートすることになりますが、費用や需要など様々な面で困難になり、竹鶴は1922年に摂津酒造を退職します。その後、ウイスキー造りを成し遂げる良き相方となったのが鳥井信治郎です。
鳥井信治朗とは、摂津酒造の主な取引先であった寿屋洋酒店(のちのサントリー酒類)の創業者で、1899年に鳥井商店を設立以降、調合ウイスキーの販売、洋酒の輸入販売、独自開発した赤玉ポートワインの販売に成功した後、日本人向けの国産ウイスキーの製造に向け蒸留所建設したいと考えていた商人です。
鳥井は製造のノウハウを学んだ竹鶴が日本に帰国し、さらに摂津酒造を退職していることを知り、1924年、10年の契約期間を条件に竹鶴を寿屋洋酒店へ招き入れました。ここからが日本における本格的なウイスキー造りの始まりです。
初めて建設されたのは大阪府の山崎蒸留所です。国産の大麦と、イギリスから輸入したピートを使用して1929年に日本初の国産ウイスキー「白札」を売り出しました。しかし本格的なスコッチ味のウイスキーに慣れていなかった日本人には、スモーキーなフレイバーが受け入れられませんでした。鳥井は竹鶴が寿屋を退職した後も改良を重ね、1937年に発売した「角瓶」は日本人にも好評を得ました。
竹鶴も寿屋洋酒店退職後、開発を続けました。1936年、北海道の地に余市蒸留所を建設し、ウイスキーが商品化できる体制が整ってから社名をニッカとし、1940年には第一号ウイスキーである「ニッカウヰスキー」が発売されました。
第二次世界大戦の影響を受け需要を減らしましたが、軍関係者に一定の需要があったため戦時中においてもなんとか製造を続けることができました。そして戦後の高度経済成長期になると、一般日本人にむけ一気に需要が高まり各地でトリスバーができたり、蒸留所が建設されたりしました。連続式蒸留器を使用することが出来るようになったことで、それまでのモルトウイスキーに加えグレーンウイスキーの製造が始まりました。それにより2種類のウイスキーをブレンドしたブレンデッドウイスキーを製造する体制が整ったのです。
しかし、1980年代に入り、需要が激減しました。その中で各社は単一の蒸留所で100種類以上の原酒を製造するなどの工夫を重ねました。これが、各所の蒸留所で製造した原酒を取引してブレンドする海外の留所との差別化に繋がり、ジャパニーズウイスキーは海外においても高評価を得るようになったのです。まさに日本の職人魂が成し遂げた成果です。
そして、サントリーが進めたハイボールブームの影響もあって2009年ごろから現在では売り上げは再び上向き傾向になりました。